訪ねてみよう!日本の偉人のお墓

豊臣秀吉(高野山奥之院参道)

豊臣秀吉は、戦国武将の1人で、織田信長のあとを継いで天下統一を果たした武将です。
その秀吉をはじめとした一族の供養塔が和歌山県にある高野山奥之院の参道にあります。
秀吉の他、母の天瑞院、異父弟の秀長、妻の淀君らの名が刻まれています。

徳川家霊台(高野山金剛峰寺)

高野山金剛峰寺にある二棟の建物に、右側に江戸幕府を開いた徳川家康、左側に第二代将軍の秀忠が祀られています。
ともに、寛永20年(1643)に第三代将軍の家光が建立したものです。
長らく荒廃していましたが、1961年に修復されて、建立当時の壮麗さを今に伝えています。

織田信長(高野山奥之院参道)

織田信長は、戦国時代に活躍した戦国武将で、天下布武を掲げて、天下統一を目指しましたが、本能寺の変で明智光秀の謀反にあって亡くなりました。
その信長の供養塔は、高野山奥之院参道の中でも、弘法大師御廟へと続く御廟之橋のすぐ近くにあります。

武田信玄(高野山奥之院参道)

戦国時代の武将で甲斐の虎と恐れられた武田信玄の墓所は、高野山奥之院参道にもあり、息子の勝頼とともに祀られています。
高野山金剛峰寺には1560年に信玄と宿坊関係を結んだ成慶院があり、高野山における武田家の菩提寺として知られています。

石田三成(高野山奥之院参道)

石田三成は、安土桃山時代の武将で豊臣秀頼に仕えた家臣です。
秀吉の死後、関が原の戦いを主導しましたが、敗れました。
高野山奥之院参道にある光成の供養塔は、明智光秀の供養塔と並び建ちます。
また、弘法大師御廟の近くにある一切経蔵というお堂は、三成が母の供養のために建立したものです。

伊達政宗(高野山奥之院参道)

伊達政宗は、戦国時代、江戸初期の大名で、片目を失ったことから、後に独眼流と呼ばれました。
1600年の関が原の戦いで徳川家康につき、江戸幕府成立後は仙台藩祖として62万石の礎を築きました。
その伊達政宗の供養塔には、大きな五輪搭が建てられています。

お江(崇源院)(高野山奥之院参道)

お江は、戦国武将の浅井長政と、織田信長の妹のお市の方の間に生まれた子どもの三女です。
長女の茶々、次女のお初とともに、浅井三姉妹と呼ばれました。
お江は、江戸幕府第2代将軍秀忠の妻です。
お江の供養等は、高野山奥之院の石碑の中でも最も大きく、一番石と呼ばれています。

大久保利通(青山霊園)

大久保利通は、薩摩藩士として西郷隆盛とともに改革運動をして、その後、岩倉具視らと王政復古などの指導的な役割を果たしました。
明治政府の中核を担って、明治4年には岩倉欧米使節団の副使として諸外国も巡りした。
官僚政治家として活躍しましたが、明治11年に暗殺されました。

大久保利通のお墓は、青山霊園の1イ種-2号-15側にあります。

東郷平八郎(多磨霊園)

東郷平八郎は、明治・大正期の海軍軍人です。
薩摩藩士として、薩英戦争、戊辰戦争にも参加しました。
その後、日露戦争の時には、旅順港封鎖作戦を行って、ロシア海軍極東艦隊を黄海海戦で、また、バルチック艦隊を日本海海戦で全滅させました。

東郷平八郎のお墓は、多磨霊園の7区-特種-1側 1番にあります。
多磨霊園のシンボル大噴水塔のすぐ近くに祀られています。

新渡戸稲造(多磨霊園)

新渡戸稲造は、明治から昭和期の教育者で、旧五千円札の肖像画としても有名です。
1877年に札幌農学校第2期生として、内村鑑三とともにキリスト教の信者になりました。
その後、留学をして、東大教授、東京女子大学の初代学長、国際連盟事務次長などで活躍しました。

新渡戸稲造のお墓は、多磨霊園の7区-1種-5側 11番にあります。

斎藤茂吉(青山霊園)

斎藤茂吉は、1906年に伊藤左千夫の門下となり、「馬酔木」「アララギ」に短歌や評論を発表しました。
1913年には、第一歌集「赤光」を発表して注目されました。
1926年には「アララギ」の編集発行人となり、医師としても活躍しました。
1951年には、文化勲章を受賞しました。

斎藤茂吉のお墓は、青山霊園の1イ種-2号-15側にあります。

後藤象二郎(青山霊園)

後藤象二郎は、幕末、明治期の政治家で、土佐藩主山内容堂に登用されて藩政の中心となりました。
その後、坂本竜馬の影響を受けて、大政奉還を実現させた人物です。
明治維新後は、政治家として活躍しました。

志賀直哉(青山霊園)

志賀直哉は1910年に武者小路実篤らと雑誌「白樺」を創刊した白樺派の小説家として知られています。
さまざまな作品を発表、出版しています。
名作「暗夜航路」を1922年に前編、1937年には後編を完成させています。
短編作家の名手として、多くの文学者に影響を与えました。

志賀直哉のお墓は、青山霊園の1イ種-2号-11側にあります。

岡本太郎(多磨霊園)

岡本太郎は、昭和期に活躍した芸術家で、漫画家の岡本一平、歌人・小説家の岡本かの子の長男として生まれました。
アヴァンギャルド芸術、対極主義を主張したことで知られています。
1967年には、日本万国博覧会のテーマ展示プロデューサーも務めました。
前衛的な岡本太郎の作風そのもののお墓で、そのお墓の下で、岡本太郎の両親と養女の敏子とともに眠っています。

岡本太郎のお墓は、多磨霊園の16区ー1種ー17側3番にあります。

北原白秋(多磨霊園)

北原白秋は、明治から昭和期の詩人・歌人で「明星」に詩・短歌を発表して、才能を示し、1909年に「スバル」を創刊しました。
同じ1909年に出た処女詩集「邪宗門」、1913年の「桐の花」で、詩人・歌人として名声を得ました。
北原白秋のお墓は丸い墓石に「北原白秋墓」と刻まれた独特の形をしています。

北原白秋のお墓は、多磨霊園の10区-1種-2側6番にあります。

与謝野晶子(多磨霊園)

与謝野晶子は、明治から昭和にかけて活躍した歌人・詩人で、処女詩集「みだれ髪」や、「君死にたまふこと勿れ」という反戦詩などが有名です。
与謝野晶子の墓石は、夫婦で同じ形のものが作られていて右が晶子で、左が夫の与謝野寛(鉄幹)のお墓です。
墓石にはそれぞれの歌が刻まれています。

与謝野晶子のお墓は、多磨霊園の11区-1種-10側14番にあります。

有島武郎(多磨霊園)

有島武郎は、「或る女」などで知られる大正時代の小説家です。
武者小路実篤らによって創刊された「白樺」で作品を発表して、1916年に妻と父を失うと本格的な作家生活に入りました。
そして、「或る女」などの名作を残しています。
有島武郎の墓は、有島家の墓地内にあり、武郎とその妻・安子の顔の肖像彫刻がはめ込まれた墓石です。

有島武郎の墓は、多磨霊園の10区-1種-3側-10番にあります。

尾崎紅葉(青山霊園)

尾崎紅葉は、「金色夜叉」などで有名な明治期の小説家です。
近代日本文学史上で最初の同人雑誌である「我楽多文庫」を出版し、1888年から一般に発売されました。
その後、大学在学のまま読売新聞社に入社し、「伽羅枕」「三人妻」「金色夜叉」など主要作を、読売新聞に発表しました。
泉鏡花、徳田秋声ら多くの後進を指導しました。

尾崎紅葉の墓は、青山霊園の1ロ種10号-14側にあります。

江戸川乱歩(多磨霊園)

江戸川乱歩は、数多くの探偵小説を残した大正・昭和期の探偵小説家です。
「D坂の殺人事件」「パノラマ島奇譚」など数多くの探偵小説を次々に発表しました。
1947年には、探偵作家クラブを設立し、1954年には江戸川乱歩賞が設定されました。
多磨霊園にあるお墓は、本名の平井家のお墓にあり、右脇には「江戸川乱歩」と書かれた石碑があります。

江戸川乱歩のお墓は、多磨霊園の26区-1種-17側-6番にあります。

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